さだまさしの詩はとても技巧的で、それが故にとても文学的であるわけだけども、文学的ということとリアリティーとは必ずしも一致しないわけですね。
情景を描写する為に様々なレトリックを使うわけだけど、使いすぎるとフィクショナルになってしまう。
さだまさしは(意外にも)メロディーが先で、ということは先に構成上の枠が出来上がっていて、それに詩をはめなければいけない。
例えば20文字分のメロディーに20文字の情景を描くのではなく、100文字分の情景をはめようとする時、レトリックが必要になる。
それが上手くいくと、3分の曲で1年や10年の物語を歌うこともできる。
それに挑むのが、ポップミュージックにおける‘文学的志’で、さだまさしはずっとそれに挑戦し続けているんじゃないかと。
彼はサービス精神が旺盛だから、「雨やどり」のようにわかりやすい(でも技巧的にはかなり高度な)曲もある一方、「まほろば」のように、聴く人に相当の国語力を要求するような曲もある。
あらためてアルバムを聞いていると、とにかく全ての曲に何かしらの志というか‘表現へのチャレンジ’が感じられて、もちろん空回りに終ったような曲もあるけど、すくなくとも手は抜いていないということはひしひしと感じるわけです。
(個人的には「檸檬」はちょっと技巧に走りすぎてリアリティーを失っていると感じてます)。
さだまさしの最高傑作は「夢供養」で、これに異論を唱える人はいないでしょう。詩、メロディー、歌唱全てに、彼のテクニックが最高の形で残されてます。
さだまさしがあれほど技巧的なのは、きっと‘照れ’からきてるんですね。心情をそのまま吐露できないから、外堀から埋めるように情景を描くことで‘想い’を伝えようとする。
小田和正も男の照れを歌ってるんだけど、彼の場合は敢えて‘口にはできない男の気持ち’を徹底的に歌にしていて、ほとんど情景は描かないんですね。A型とO型の違いかしらん。
僕も、さだまさしスタイル(?)です。だから、さだまさしがどういう思考経路でその詩を書き上げたか、わかるような気がするんです。
そんなんで、個人的に一番好きなのがソロデビューアルバム「帰去来」。
技巧よりも‘想い’が先にあって、それを何とか技巧で‘生臭さ’を押さえ込もうとしているようなところが好き。だから、わかりにくいというかもどかしいところもあるんだけど、行間からにじみ出てくるリアリティーに胸を打たれる。夜、酒を飲みながら聴いていると(それが今なんだけど)、当時の等身大の‘青年さだまさし’と、自分の中の何かが共鳴するような気がして。
「第三病棟」とか、僕でもきっとああいう詩の書き方をするだろうなって。行間の想いがびしびし伝わってきて、出会ったこともない男の子の思い出に泣きそうになる。
あと、リアルタイムで初めて買ったアルバム「印象派」も好きだな。「距離」とか「検察側の証人」とか、完全に技巧中心でできた曲だけど、ものすごい完成度だと思う。
当時のシングルの「驛舎」も、リアリティーでは「案山子」に適わないけど、それでも詩・曲・編曲全てに気合いの入った、とてもいい曲だと思う。
帰去来