まずは、大論争の始まりとなった山形氏の
この文章をじっくり読んでみた。
社会は持ちつ持たれつ、支え合うことで成立している。その一パーセントの人々が、他の人々とまったく無関係に世に必要な財やサービスを全部生産する、なんてことはあり得ないんだもん。(中略)生産性が高いと自負しているあなたも、自分が無数の生産性が低い人たちの働きに支えられているという自覚を持たなきゃ。ねえケンシロウくん。
なるほどなるほど。うん、そうだよね。言いたいことはよくわかるし、賛同できる。
で、
次の記事。さあて、ここからが問題だ。これに池田氏が
異議を唱えたわけです。
山形氏の最初の記事は、これはいわゆる‘エッセイ’というやつで、人の‘実感’に訴えることを目的としている。しかし件のふたつめの記事は、いわゆる論文調になっているので、今度は‘論理的整合性’が求められます。とりわけ結論が‘
賃金水準は、絶対的な生産性で決まるんじゃない。その社会の平均的な生産性で決まるんだ’とセンセーショナルなだけに、その論理展開はシビアにチェックされるわけです。しかし、文体は相変わらずエッセイ調なので、非常に論旨を把握しにくい。
で、僕なりの結論。
そもそも山形氏は、‘生産性’という言葉の選択を間違っていたのでは。
ここは経済学の専門家である池田氏の
普通の経済学では、賃金は労働の限界生産性と均等化すると教えている。たとえば喫茶店のウェイトレスをあらたに雇って時給800円を払えば、1時間に400円のコーヒーが2杯以上よけいに売れるとき、店主はウェイトレスを雇うが、ウェイトレスが増えて限界生産性が低下し、1人増やしてもコーヒーが1杯しか売れなくなったら雇わない。
という解説に従うと、生産性とは要するに‘
いくら売上げるか’ということ。
一方、山形氏にとっての生産性とは
同じ作業で比較すれば、品質の高さ、時間あたりの処理件数なんかで生産性ははかれる。そして処理件数は、すなわちその仕事における技能ということだ。さらに、本来であれば生産性——つまりは技能水準——に比例して所得は増える。これはまちがいない。この水準では、高い技能=高い生産性=高い所得という関係が成立する。
つまり‘
どれだけの価値のものを生み出せるか’ではないか、と。
似て非なるもの、というのがおわかりでしょうか。
で、話が国際間の賃金格差に及んで、混乱を始めるわけです。
山形氏は、例えば床屋を例に出して‘日本の床屋さんは後進国の 10 倍以上も稼ぐ’ことに疑問を持ち、‘日本の床屋もガーナの床屋も、技能にそれほど差があるわけではないのに、賃金差があるのは何故’かと考察しているわけです。
要するに山形氏のメッセージは、
賃金は、絶対的な生産能力で決まるんじゃない。その社会の平均的な所得水準で決まるんだということだったんではないでしょうか。
一方、池田氏を始めとする経済学者にとっては、数値化できない‘絶対的な生産能力’など考慮にいれていなくて、純粋に売上げ(限界生産性)だけで賃金を考えるわけです。
何もできない17才の女の子をウエイトレスに雇って、笑顔だけで1時間に10人の客を増やすことができたなら、その子は十分に生産性が高いのですね。
賃金については、前記事にも書きましたが、池田氏の仰るとおり、最終的には個々の業種の限界生産性で決まるのだと思います。
‘日本の床屋さんは後進国の 10 倍以上も稼ぐ’国際間の賃金格差については、為替レートやら国際間競争を考慮に入れないと、1ドルの価値が違う中で単純に比較できないのでは。
日本のウエイトレスの時給が800円、フィリピンでは80円だとしても、物価が日本の10分の1なら事実上、生産性は同じですよね。
で、結論。
結局山形氏のメッセージは、‘自分の能力が認められないからって腐っちゃいけないぜ。社会が良くなれば日の目を見るさ’的な、もっと言えば‘給料で人を判断しちゃいけない’的な、いわゆるロックナンバーのようなものだと思うのですが、いかが。なまじ頭がいいのでロジックを駆使していますが、そもそもが‘アジテートありき’なので、学者のスタンスからは‘いわがわしい理論’だと見なされるのだと思います。
追記
素人の僕が、なぜこんな高尚な議論に口を挟むかというと、僕が‘エラリー・クイーン’マニアだからです。